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車椅子で地元の名所旧跡めぐり

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車椅子で地元の名所旧跡めぐり
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すぐ近くに知らなかった名所旧跡が沢山あります。
勉強しながら改めてみていくと楽しいものです、ひとつずつ紹介していきます。
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名所旧跡めくり---一覧表

2013/01/17 14:33
地元の名所旧跡めぐりの一覧表を作成しました

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メニューをクリックすると今まで行ったその1〜6までの一覧表が出てきます。
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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−72

2012/12/17 09:22
南海浜寺公園駅
(堺市西区浜寺公園町)
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浜寺公園駅は
明治40年(1907)、当時ひと夏100万人といわれた海水浴客に対応するため、難波〜浜寺公園間が電化され、あわせて東洋一といわれた海水浴場の玄関口にふさわしくするために建替えられたのが現在の浜寺公園駅舎です。
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戦後、埋め立てられた海水浴場など、駅周辺が劇的に様変わりする中で、「明治の駅」は今も健在で。
地元をはじめ多くの人々から親しまれ、日本建築学会など学術的にも高く評価されています。

平成10年(1998)には国の登録有形文化財に指定され、また平成12年(2000)には「近畿の駅」百選にも認定されています。
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南海電車は高架化が進んでいますが、浜寺公園駅と諏訪ノ森駅は国の登録有形文化財に指定されたため高架にできず旧駅舎が残っています

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駅舎は木造平屋建て、白木、白壁造りの洋風建築で、わが国で現存する最古の洋風駅舎です。
設計は日本の近代建築の草分けといわれる東京帝国大学工科大学学長・辰野金吾と片岡安博士によるもので、
屋根の正面に見えるドーマ窓(屋根窓)や柱の骨組みを壁に埋め込まずに装飾模様として活かすハーフチンバー様式造り、
また鹿鳴館の2階ベランダ部分に用いられた柱と似た玄関柱が特徴です。
ちなみに辰野金吾博士の設計した建物で有名なものとしては、赤レンガで有名な東京駅や日本銀行本店、関西では大阪市中央公会堂などがあるそうです。
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駅舎前には赤色の懐かしいポストがあり、左横には、白く塗られた木製の改札口がいくつも並んでいます。
ホーム側は自動販売機で塞がれ、外側は駐車スペースになっているので、今は使われないようですがバリアフリーに一役買っていて車椅子で行くと案内していただけます。
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でも昔は、浜寺公園で遊ぶのを楽しみにこの駅で降りた沢山の人々が、この改札を通り抜けたのだろうとしのばれます。


<駅構造とバリアフリー>---クリックすると大きくなります---
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待避設備を備えた2面4線のホームを持つ地平駅で3・4番線ホーム(難波方面)側に駅舎があります。
3番線ホームです
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駅舎前は階段になっていて、車椅子の場合左横の木製の改札口が車いす用に広くなっていて案内していただけます。
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4番線は難波駅側の切り欠き部にあり、元々はこの駅で折り返す列車が使用していたが、現在は待避線となっています。
4番ホームの反対側には5番線があった形跡が残されているそうですが分かりませんでした。
堺・難波方面へ向かう列車で4番線ホームに入線する列車は3番線を通過し、4番線に停車します。
渡り線がないため当駅では列車の折り返しはできません。
かつては難波方に渡り線がありましたが撤去され、当駅折り返し列車の設定はなくなりました。

3番線から見た、1.2番線ホームです。
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反対側の1・2番ホーム(和歌山市方面)は島式ホームで、地下道によって3・4番線ホームに連絡しています。
浜寺公園へ行く人は、階段で地下道へ入り3番ホームへ出て正面改札口を通ります。
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車椅子の場合は階段が利用できませんから、階段横のスロープを通り(線路の東側)の改札口からでます。
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(1・2番ホームと構内踏切によって繋がっています、構内の踏切は珍しいと思います)
改札口を出ると2段階段がありますが、駅員さんがスロープ板を使って道路へおりる手助けをして下さいました。
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出た後、少し南へ行くと一般道の踏切がありますから右折して踏切を渡れば浜寺公園へ行けます。
どこでもそうですが、踏切は線路のところに間が空いていますから注意して渡る必要があります。

阪堺線沿線の名所旧跡めぐりはこれで終わりです、次回はまだ未定ですが暖かくなってから決める予定です。
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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−71

2012/12/15 09:40
阪堺線浜寺駅前駅
(堺市西区浜寺公園町)
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浜寺駅前駅(はまでらえきまええき)は、堺市西区浜寺公園町2丁140にある阪堺電気軌道阪堺線の停留場。
阪堺線の終点駅で浜寺公園の真ん前にあります。
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南海電気鉄道南海本線の浜寺公園駅と連絡しており、徒歩約2分のところにあります。
1912年(明治45年)4月1日 - 阪堺電気軌道により開業。
1980年(昭和55年)12月1日 - 路線譲渡により阪堺電気軌道の駅となっています。
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単式ホーム2面。
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通常は駅舎側@ののりばで乗降します。
先発の電車が@に停車しているときは船尾(北)側2ののりばで降車となることがあります。
駅舎には定期券発売所があり、定期券や回数券を購入できます。

大阪市方面へ行く始発駅となります
昼間午前7時から午後7時の間は、1時間に5本の電車が発車しています
ほとんどが天王寺駅前行きで、本来の阪堺線の恵比寿駅行きはほとんどありません。

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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−70

2012/12/13 09:28
浜寺公園内の名所旧跡
(堺市西区)
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阪堺線終着駅の前にはー年間220万人の人が訪れる明治6年完成の日本最古の公園の一つ「浜寺公園」があります。。

「名松100選」の美しい松林を誇る白砂青松の面影を残し、プール、交通遊園や春秋が見ごろのばら庭園などがあり、250種6,500株のばらが華やかな色と香りを演出しています。
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門のように立つモニュメントは、皇太子殿下御成婚記念碑で、昭和34年に毎日新聞社と浜寺スイミングセンターが寄贈したものです。
公園に入ると延々と松林が続いています、その中で見つけた名所旧跡です。


@浜寺公園の碑
公園に入ってすぐ左手に、浜寺公園碑が立っています。
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明治33年(1900年)に立てられたもので、浜寺の松が江戸時代に防風林として植林されたことや、公園の由来などが漢文調で記されています。
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浜寺公園はまず貴重な松林を残すために開設されました。


A惜松碑 (せきしょうひ)
浜寺公園のエピソードを記すのが、この惜松碑です。明治に入り、当時の堺県令はこの松林を伐採し、開墾しようとしていました。
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しかし、明治6年にこの地を訪れた大久保利通が「音にきく高師の浜のはま松も 世のあだ波はのがれざりけり」と詠み、
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松林を惜しむ気持ちを県令に伝えたところ、県令は伐採を中止し、太政官にこの地を公園にすることを願い出たのです。
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この石碑は明治31年(1898年)、大阪府知事・西村捨三によって立てられました。公園に入って右手にあります。


B与謝野晶子文学碑     
歌集「みだれ髪」で知られる歌人 与謝野晶子は明治11年に堺市で生まれ、少女時代から文学的才能に恵まれ
22歳のとき歌人の与謝野鉄幹と結婚し五男六女をもうけました。
歌集「みだれ髪」「小扇」「舞姫」をはじめ日露戦争の時には「君死に給うことなけれ」の長詩を発表。
     やわ肌のあつき血潮にふれも見で
              さびしからずや道を説く君
などの作品で、「情熱の歌人」と称されましたが、昭和17年64歳で惜しまれつつ亡くなりました。
この与謝野晶子の文学碑は、浜寺公園の正門入って右手に惜松碑、のやや北側に立っています。
歌集「火の鳥」の中のふるさと堺を詠んだ和歌の文学碑があります。
 (残念ながら写真が撮れていませんでした)
  
 ふるさとの 和泉の山をきわやかに
           浮けし海より朝風ぞ吹く
  

C鳳凰の松
昔の浜寺では「三光松」「羽衣の松」(衣懸けの松)「白蛇の松」「千両松」「黄金の松」「酔仙の松」「蓬莱松」
といった名松が数多くありました。
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現在では、「鳳凰の松」が現代の名松とされています。 


D浜寺水練学校記念碑
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海水浴場は昭和36年の海岸部埋め立てにより幕を閉じ、昭和38年にオープンした府営浜寺公園プールがその代わりをつとめています。
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Eラクショウ
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バラ園の庭園内池の水際に鍾乳石のような珍しい植物が見られます。
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ほかにもあると思いますが目についたところだけです。
なお浜寺公園については公式ホームページがありますので見てください。
そして浜寺公園バラ園は当ブログ「あせらず あきらめず あかるく」をご覧ください。
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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−69

2012/12/11 09:23
大和橋(新大和川)
(住吉区)
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大和橋は紀州街道が大和川を渡る(大阪市と堺を結ぶ)ところに架けられた公儀橋です。

大阪側の橋を渡るところに「大和橋之碑」があります。
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「大阪市と堺市を結ぶ大和橋は 大和川の開削と共に宝永元年 紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった
当時 大和川にはこの橋しかなく 旧暦六月末日に行われていた住吉大社の大祓の祭では一場の舞台てなった
神遷しをした神輿をかつぎ数百人が持つ炉火の火は西宮を始め兵庫明石から泉州湾岸まで見ることができる
人々はこの火を目印として神幸を拝したという
これを「住吉の火替え」といった
幕府の手によって架けられた大和橋は洪水時に絶えず流失の危険にさらされながら
大正五年 大阪府が鉄橋に架け換え 現在の橋は橋梁形式三径間連続の斜張橋で橋長一九二メートル
有効幅員九.五メートルとなった
                              平成十一年三月 大阪市」
と書いてあります。

大和川(新大和川)は奈良県桜井市の北東部(国道25号線・福住町南)近郊が源流です。
かつては生駒山系と葛城山系の間を抜けて北流して河内方面へ流れていましたが、何度も洪水を引き起こしたため、
今米村(現・東大阪市)の庄屋・中甚兵衛らが幕府に請願して、宝永元年(1704)に8ヶ月にわたる付け替え工事
の結果、現在のように堺に向け西流するようになりました。
橋の中央あたりから南東(堺方面)
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橋の中央あたりから北東(大阪市方面)
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住吉大社の夏祭り「川渡御」には紀州街道を神輿をかついで大和川を渡り、堺側のかつぎ手に引き渡します。
大和川にかかる大和橋(江戸時代には公儀橋でした)から東方を望むと二上山が見え、そこを越えると飛鳥の地にたどり着きますが、
この山並みの光景は古代から変わりません。
かつて「岸の辺の道」を歩いた万葉歌人たちも仰ぎ見たはずで、そう考えると、感慨深いものがあります。
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大和橋の東に阪堺線の橋が架かっていてチンチン電車が走っていました。
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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−68

2012/12/09 09:09
手洗橋
(住之江区安立)
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紀州街道も大阪市内最南方に近づいてきました、大和橋の手前急坂の中ほどにあります。

かつては橋の下には手水川が流れていて、大和川の付け替え時にも、この手水川は残されました。
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近くには住吉大社のお旅所があって、また紀州徳川候の本陣などもありました。
現在は川は埋め立てられています。
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阪堺線沿線の名所旧跡めぐり−67

2012/12/07 09:07
紀州街道の碑
(住之江区安立)
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阿弥陀寺の正門右に紀州街道の碑が建っていました。

歌碑には
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紀州街道は江戸時代
大阪と和歌山を連絡する大動脈として整備された
その道筋は高麗橋東詰から堺筋を南に下り
天下茶屋 住吉大社の前を通って堺に入り
大阪湾に沿って和歌山に至るのがその経路であり
参勤交代の大名や商人達でにぎわった
かつて 住之江あたりはすぐそばまで海岸線がひろがり
霰松原(あられまつばら)と呼ばれた白砂青松の景勝地があった
昭和六十二年三月 大阪市


下のほうには
「まりと殿様」西条八十作詞の歌詞が書いてあります

てんてんてんまり てん手毬
てんてん手毬の 手がそれて
どこからどこまで とんでった
垣根を越えて 屋根越えて
おもての通りへ とんでった
とんでった

和歌山城天守閣下にも「手鞠」の歌碑があり西條八十の自筆で最終節が刻まれているそうです。
てまりはここから、和歌山まで飛んで行ったのかなと思いをしました。
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